
彼女はこれまで〈カネコアヤノ〉として、フォークとロックを行き来しながら独自の歩みを続けてきた。決してメインストリームに回収されることのない存在でありながら、その音楽は圧倒的な支持を集め、揺るぎない人気を獲得してきた。本作では、ライブを共にしてきたサポートメンバーたちとバンドを結成し、〈kanekoayano〉名義でアルバムを完成させている。そこに鳴っているのは、これまでの彼女の作品にはなかった剥き出しのエナジーと荒々しさ。衝動と確信が真正面からぶつかり合う、間違いなくキャリア屈指の傑作だ。
一直以來,她都以「カネコアヤノ」(綾野金子)之名,渡步於民謠與搖滾的路肩,走出屬於自己的創作之路。雖未曾被市場收編,但其創作仍獲得諸多支持,並累積了不可撼動的人氣。而《石の糸》是她與長期共演、協作的樂團夥伴,首次以「kanekoayano」(編者注:此為カネコアヤノ的讀音,當其取消姓氏中間的空格時,則成為樂團名。)製作的專輯。當中,前所未見、粗獷且赤裸的能量迴盪著,某種衝動與確信的精神在此正面碰撞,而這絕對是她創作生涯中首屈一指的傑作。
沖縄県における有機フッ素化合物(PFAS)による水質汚染をテーマにした、鈴木萌の作品「Aabuku」。写真展とアーティストブックというかたちで完結したかに思えたこのプロジェクトは、しかしそこで終わらなかった。彼女は富士フイルムの助成を受け、今度は「産業廃棄物」による汚染が起きた岡山県吉備中央町へとカメラを向ける。
彼女の作品のおもしろさは、「不可視性」を可視化しようとする、その態度にある。PFASや産業廃棄物による汚染は、目に見えず、味も匂いもない。つまり、日常の感覚では存在しないものとして通り過ぎてしまう。しかし彼女は、それを直接“写す”ことができないと知った上で、風景や痕跡、人の生活に滲み出る違和感を丁寧に掬い上げていく。
そこにあるのは告発の強度というより、気づいてしまった後に戻れなくなる視線だ。見えないものを無理に見せるのではなく、見えなさそのものを問いとして立ち上げる。その試み自体が、この作品を単なる社会的ドキュメントから引き離し、写真表現としての深度を与えている。
鈴木萌聚焦沖繩當地因有機氟化物(PFAS)造成之水質污染議題的前作「Aabuku」,狀似以展覽和藝術家的書(Artists’ Book)作為發表形式劃下句點。然而,事情並未完結,獲得富士軟片(富士フイルム)的獎助後,其同樣關注污染問題,並將鏡頭轉向發生於岡山縣吉備中央町的「產業廢棄物」問題。
鈴木作品的玩味之處,在於其試著視覺化某種「不可視性」的態度。事實上,無論是有機氟化物或產業廢棄物,其造成的皆為無色無味,難以捉摸且無從照見的隱性污染。換言之,人們時常因感官無法辨識,而將之視為不存在並就此忽略。然而,即便明知無從顯影污染,但攝影家仍細膩地從風景與痕跡中,感知、掬取那些滲入如常生活中的「違和感」。
與其説攝影者試圖以此傳遞某種意圖「告發」的訴狀,不如說其更試圖提供一種覺察後便無從忽視的視線。此視線無意強行展露看不見的事物,而是將「看不見」 一事化為提問。在這個意義上,此嘗試讓本作跳脫純粹的社會紀實類型,而體現出攝影創作的可能性。
『バリ山行』を読みながら、自分の山行を何度も思い出した。地図上では行けそうに見えて、実際には引き返すか進むかの判断を迫られる、あの不穏な時間。本作は、その感覚を驚くほど正確に掴んでいる。
自分も山に登るからわかるが、バリエーションルートには達成感より先に、迷いと焦り、そして妙な高揚がある。松永K三蔵は、それを美談にせず、身体の疲労や人との距離感として冷静に描く。静かなのに息苦しい。山の小説であり、人間の小説だ。
読み終えたあと、しばらく山のことを考えた。次にどこへ行くかではなく、「なぜ登るのか」を問い返されるような読後感だった。静かで、冷たくて、しかし確かに熱を帯びた一冊。山を知っている人ほど、深く刺さる小説だと思う。
閱讀《バリ山行》時,無數次地憶起自己的登山經歷。那種地圖上狀似可行,實際抵達現場卻曖昧不明,必須被迫在撤退或續行的選項中游移,而令人忐忑迷惘的時刻與感受。本作十分驚人地精準捕捉了此種感覺。
正因自己亦是山友所以明白,身處變動路線(バリエーションルート)當中,在成就感抵達之前,是迷惘、焦慮,以及一種微妙的興奮感。作者松永K三蔵並未將之化為一樁美談,而是冷靜地刻畫身體的疲勞和人與人之間的距離感——寧靜卻令人窒息。我想,這是一本描寫山,亦書寫「人」的小說。
閱畢後,我有好一陣子都在思考關於山的種種。不過,我所想的,並非尋覓下次的目的地,而是反詰自身為何登山。總之,這是一本靜謐,凜冽,卻裹藏著熱度的作品。我想,越是識山之人,這本小說便刺得越深。
同世代の日本のバンドの中でも、No Busesは早い段階から海外で活動し、注目を集めてきた存在だ。一方で、これまでに発表してきたアルバムには、どこか焦点の定まりきらない印象もあった。人気という点でも、羊文学やBREIMENといった同世代のバンドに水をあけられていたように思う。加えてメンバーの脱退もあり、一時は解散すら想像させる状況だった。
そんな彼らがリリースした『NB2』は、明らかに転換点となる作品だ。危機感をそのまま音の強度へと変換し、バンドのスタイルは確実に進化している。だからこそ、ライブを観に行った。
ステージに立ち上がっていたのは、制御された狂気と、身体を否応なく揺さぶるグルーヴ。『NB2』で獲得した緊張感が、そのままライブの説得力へと昇華されていた。
在同世代的日本樂團中,No Buses 是早期便開始海外活動,亦確實獲得一些關注的團體。然而,一方面,其迄今爲之的專輯作品始終缺乏明確主題/風格,而讓人難以留下深刻印象。同時,他們的人氣開始被羊文學、BREIMEN 等同輩拉開差距。加上又經歷團員退出事件,整個樂團讓人一度覺得瀕臨解散危機。
在此境遇下推出的《NB2》,無疑是個鮮明的轉捩點。將危機感煉化為具強度的聲響,他們已然脫胎換骨。正因如此,我才奔赴現場演出。而矗立於舞台之上的,是受控的狂氣,是那股不由分說、強行撼動軀體的律動。《NB2》裡凝練出的張力, 已然在此昇華為現場演出中無可辯駁的說服力。